2015年1月3日土曜日

英文法というものは、言語が生まれた後にできたものである。


英文法というものは、言語が生まれた後にできたものである。

僕は、昔、中国を勉強し始めた時に、まず構造的に理解しようとした。それが一番速い方法だと錯覚していた。構造的に理解するということは、頭だけで理解しようとする努力に似ている。それは、ある意味正しいのかもしれないが、言語習得の近道ではないと思う。

日本の英語教育は、文法に力を入れている。それは、パズルのように言語を把握しようとしているのと同じ。パズルは解けるようになるけれど、いつまでたってもしゃべれない。

一年を振り返り…と、英語にすると I am reflecting. あれっ、reflect って、自動詞で使うときって、どう使うんだっけとか、他動詞じゃなかったっけとか考えるのは、実は時間の無駄だということ。そもそも、文法は、言語が生まれた後に、後付けで構造化して作られたものに過ぎないから。

中国語では、自動詞とか他動詞とかが曖昧なときがある。実は、そういう文法の概念にとらわれる方が変なのかもしれない。「私は、~を、…したい。」という表現が発生したのは、文法には関係せず、言葉のそもそもの発生段階に、人間が考える非常に標準的な行為を表しただけのものに過ぎない。

そろそろ、脱文法(だつぶんぽう)(文法なんか、忘れてしまって)で、言語を勉強する時代にならないかなぁ。